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御所千度参り!江戸時代最悪の大飢饉を17歳で救った光格天皇の活躍!

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 江戸時代最悪の大飢饉を救ったのは、17歳の天皇だったとご存知ですか?

 

身のかひは 何を祈らず 朝な夕な 民安かれと 思うばかりぞ

(私自身の事は何も祈らない。朝から晩まで民の安寧を願うばかりなので。)

 

この和歌を詠んだ天皇こそ、今回の主人公である光格天皇

皇室の中興の祖とも言われているくらいの優秀なご事績を残された天皇でした。

 

桃園天皇が病気で崩御され、光格天皇がその座についたのはわずか9歳のこと。

ここから波乱万丈で、サクセスフルな光格天皇のストーリーが始まるのです。

 

今回はそのストーリーのうちの一つをご紹介しましょう。

 

 

天明の大飢饉が発生!

光格天皇が9歳で即位してから3年目に「天明の大飢饉」と言われる事件がおきました。

 

天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは江戸時代中期の1782年天明2年)から1788年天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本近世では最大の飢饉とされる。

出典:天明の大飢饉 - Wikipedia

 

天明の大飢饉の原因は、異常気象、や国内外の火山の噴火(岩木山浅間山ラキ火山など)などの影響により、農作物が獲れなくなってしまったことによるといわれています。

 

飢饉というと1年で終わるイメージを私は持っていたのですが、天明の大飢饉は6年間も続く飢饉でした。

そのため被害もひどく、死んだ人の肉を食べなければ生きられない状況に追い込まれる人も多かったそうです。

 

また、飢饉は疫病や打ちこわしなどの社会情勢の悪化も引き起こしました。

食うものは無くておなかがすく、免疫力が無くなるから病気になる、そして食べ物を得るため犯罪を犯し、鬱憤を晴らすために大暴動をおこして治安が悪くなる・・・など、江戸時代の中でも最悪の状況だったといわれています。

 

御所千度参りとは?民衆の目的は「天下泰平五穀豊穣祈願」

 さて、江戸や大阪では打ち壊しが行われていた時に、京都の人たちは一風違った行動に出ます。

 

人々は最初、飢饉からの救済を京都の役人(京都所司代)に訴えていました。

ですが役人は話を聞こうともしなかった。

 

ワラにすがる思いで京都の人々は、天皇が住む京都御所の周りを祈りながら廻りました。1987年、天明の大飢饉から5年目に行われたこのムーブメントを、御所千度参りと言います。

 

最初は数人から行われていたものだったらしいのですが、次第に数が増え、多い時には7万人もの人が千度参りに参加をしたとのことです。

爆発的に人が増えたのが1987年の6月11日だったそうですが、これは「6月11日にみんなで行こうぜ」という貼札(張り紙)が街中にたくさん張られていたことが理由だと言われています。

ちなみに7万人っていうと、東京ドーム満員でもまだまだ足りない数。めちゃくちゃすごい数の人なんですね。

 

人の集まる所には出店が並ぶものですが、皇室や公家からは無料で差し入れが配られました。

・きれいな湧き水

・リンゴ3万個(御桜町天皇より)

・お茶(有栖川宮一条家より)

・おにぎり(九条家鷹司家より)

民衆が集まっても排除もせず、なぜかおにぎりとか配るというのは、なかなか日本的な感じがしますね。 

 

さて、民衆が起こした御所千度参りの目的は何なのでしょうか。

「幕府に何とか言ってやってよ!!もう天皇しか言える人いないのよ!」なんていう人たちもいたらしいですが、これは少数だったそうですね。

 

多くの人は「天下泰平五穀成就祈願」だと言われています。つまりお祈りですね。

神社に参拝しに行くような感覚で、神頼みをしに行ったらしいです。

先ほど「6月11日にみんなで千度参り行こうぜ!」というビラがまかれたのですが、その文面も「お祈りをしに行きましょう」というニュアンスで書かれていたことからも、第一の目的は直訴ではなく祈願だとわかります。

「米穀豊作のため、禁裏へご千度参り仕り候、稲荷大明神霊夢をこうむり候につき、当月十一日、新人の方はご参詣これ在るべきもの也」

出典:『大江戸世相夜話』 著:藤田 覚

(引用はより)

 

つまり神道を統べ、稲穂をこの世界に持ち込んだニニギ、天照大神の子孫である天皇の御稜威に頼ろうということだったのです。

 

千度参りは6月に始まり、収束は9月でした。

 

弱冠17歳の光格天皇が、幕府を動かす

 この御所千度参りを重く見た、光格天皇は動きます。

「困っている民に幕府の持つ救い米を出し、助けてあげてください」

 

当時は『禁中並公家諸法度』という法律があり、天皇や公家は政治や民衆の生活に関わることが出来なかったのです。皇室や公家が自分の財産から民衆を救済してもアウトだったということなので、かなり厳しく禁止事項が設けられていました。

そのため、光格天皇が政治の主体である幕府に向かって「こうしてください」と指示をすることは、前代未聞の出来事だったのです。

 

この時の光格天皇は17歳。決死の覚悟だったのでしょうね。

叔父の鷹司氏も同様に、厳罰を覚悟で幕府に申し入れをしています。

 

この訴えを聞いて、幕府は民の救済に乗り出します。

天皇や鷹司氏の訴え以前から、救済のための米を500石(7.5t)出すことは決めていました。

この500石に1000石(15t)を追加した1500石(22.5t)を救い米を増やしました。

 

なぜ幕府は『禁中並公家諸法度』に違反した訴えを受け入れたのでしょうか。

・この年に新将軍・徳川家斉が就任した為の徳政令

・皇室や公家が庶民を助けたら、幕府の印象が下がり皇室の威信が強まってしまう

・飢饉の原因は農作物の不作だけでなく、幕府の失政につぐ失政も大きいから

こういった色々な説があります。

 

とにもかくにも、光格天皇と鷹司氏の決死の覚悟が日本を救ったのです。 

 

民衆の間には「貧民を救済する皇室と、逃げて手をこまねいている幕府」という言説が飛び交い、民衆は明らかに皇室を支持していたという社会的風潮が生まれました。

これが幕末の「尊王攘夷」の思想に繋がっていったといわれています。

 

光格天皇は、明仁上皇のお手本?

2019年4月をもって、明仁天皇(当時)は退位し上皇になりました。

譲位という形で次の世代に位を譲るのは、実は光格天皇以来200年ぶりとのことです。

また、明仁上皇光格天皇の直系の子孫です。

 

明仁上皇は、退位前に「光格天皇の事績を調べるように」と宮内庁幹部に依頼をされたとのことでした。

 

 

明仁上皇と同じく、民を大切に思っていた光格天皇

光格天皇上皇としてのご事績を調べることで、譲位後のご振る舞いのご参考にされるということ。

ここに万世一系の重みと、皇統の意義が見えてくるようなきがします。