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「易姓革命」は誰も幸せにしない悲劇の思想

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最近、「日本も易姓革命を見習うべきだ」というブログを読み、危機感を覚えたので書いていきたいと思います。

 

 

易姓革命とは

 まずは、易姓革命とは何かをご説明しましょう。

 

は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天める)が起きるとされた。それを悟って、君主天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。

引用:wikipedia易姓革命』より

 

易姓革命とは、天子の姓(名字)を変えることで国の支配体制が変わることを指します。

天子の姓を変えるということは、その地位を別の家のものに譲るということ。

 

そしてそのタイミングは、天子がその徳を失った時とされています。

 

 

中国には「天命思想」というものがあります。

天子=皇帝は、天帝から

 

こういった説明によると、「なんか民主主義的でいいやん~徳とか書いてあるし♪」という印象を持つかもしれません。

 しかし、この思想の危うさは

 

易姓革命思想の矛盾

 

一見、民主的に見える易姓革命ですが、この思想には間違いがあり、危ういものなのです。

 

実際のところ、中国の皇帝が変更することで、社会の秩序が乱れたりすることが多かったようです。

そして現在は王朝が失われ、政治的な混乱や独裁体制が存在しています。

 

さて、易姓革命の矛盾はどこにあるのかを見ていきましょう。

 

天の徳を人間が判断することは不可能

姓を変えるタイミングは、天子が天の徳を失った時といいます。

しかし、天の徳を失った時を決定するのは結局のところ人間の視点なのです。

 

実際のところとして、飢饉や災害などの自然現象も天子の徳が少ないことの反映だと言われています。

 

孟子は答えて「仁愛をそこなうものは賊であり、道義をそこなうものが残である。こういう残賊をおかすような悪人は、天子にして天子でなく、一個の人間に過ぎない。だから、殷の湯王や周の武王は、天子にして天子でない残賊、すなわち一個の人間に過ぎない夏王桀や殷の紂王に反抗してそれを殺したのである。殺した相手は一個の人間にすぎなかった。」という。

引用:『古代中国』貝塚茂樹・伊藤道晴

 

孟子によれば、仁愛を損なう天子は、天命から見放されるために一個の人間に戻ると言っています。

ですが天の意思や徳かどうかを、なぜ我々のような人間ごときが判断できるのでしょうか?

 

例えば、皇帝転覆を企んでいる人がいて、その人間が結果的に皇帝になれば、勝者が歴史を書き換えることになります。

つまり、前の皇帝がやってないことや意図していないことまで捏造することができるのです。

 

また、短期的に失政に見えていても、長期的に見れば国にプラスの影響を与えることもあるはずです。

 

天命思想では「完璧」であるはずの天の意思や徳を、欲にまみれて近視眼的な我々人間が判断するなんて不可能だと思いませんか?

 

だからこそ、天命は受けるのではなく、勝ち取るものになります。

 

易姓革命の理論のうちには、こういった矛盾を孕んでいます。

 

勝者に「天の徳」があるとは限らない

易姓革命は「誰でも公平に皇帝になれるチャンスがありますよ」というものです。

これはこれで夢がある話かもしれませんが、こここにも落とし穴があります。

 

先ほども例をあげましたが、皇帝になりたい野心を持つ人間が、革命に成功たとしましょう。

革命に成功した人いうのはいわゆる「勝者」ですね。

 

「勝者」は徳や仁愛があったから勝者になったとは限りません。

歴史的にも、政治力や経済力、軍事力があったからこそ勝者になったパターンが多いと見受けられます。

 

言い換えれば、正義は勝者=パワーのある人間によって変わり得るということですね。

革命とはつまるところ、破壊ということになりますね。

 

そうなると天が人間に求めているのは「武力」「調整力」「経済力」なのか、という議論も起き得てしまうのです。

 

「天の徳」を退帝の基準としているにも関わらず、新しい皇帝になるには徳でなくパワーのみが必要で、徳があるかどうかは二の次になるという矛盾が起きてしまいます。

 

これは征服者にとって都合のいい、民衆にとっては不都合な事実だったのです。

 

 

民衆や部下は「敵」であり、支配や搾取の対象

易姓革命がある中国の皇帝にとって、民衆や部下は反乱や革命を起こすかもしれない危険分子的な存在でもありました。

 

皇帝自身が天の徳=仁愛を持ち得ていても、野心がある人間が力を持てば、自らの地位と命が危うくなるからです。

 

だからこそ、部下や側近の言動や思想には絶えず注意をしていなければなりません。

北朝鮮金正恩氏が次々と身内や側近を処刑していた例からも、権力者が疑心暗鬼に陥りやすいというのはお分かり頂けると思います。

 

そうなると、部下や側近も、いつ自分の首が撥ねられるかビクビクしながら過ごすことになります。

 

ここには信頼関係や徳治などはありません。

皇帝の支配は自らの権力やパワーを基盤として、無理矢理に押し付けるものになりがちです。

そうなると皇帝の権力の乱用や圧政を生み出しやすくなるのは、歴史を見れば明確でしょう。

 

その統治の姿勢は側近や部下だけでなく、民衆への接し方にも影響を及ぼします。

 

皇帝にとって民衆はパワーによる支配・統治の対象であり、「簒奪」「搾取」につながっていきます。

 

特に天命をパワーで勝ち取り野心を満たす者は、自己の為のみで民衆から搾取する傾向にあります。

 

日本の皇室の「万人は大御宝であり大切にしなければならない」という大御心は世襲だからこそここまで受け継がれてきたと考えられます。

革命ありきのパワーと疑心暗鬼の蔓延る他国には伝統として根付かない考え方なのです。

 

 

結局のところ、易姓革命は征服者の言い訳と支配の正当化

結局のところ、易姓革命思想は征服者が支配をする際の正当化に他なりません。

 

実際に、易姓革命思想は異民族が支配や乗っ取りに利用したという過去があります。

中国は漢民族やモンゴル、満州族などの異民族が征服に征服を重ねたという歴史的な事実があるのです。

 

そこには、いままで積み上げてきた文化の破壊と動乱や乱れた世の中や人心が常に生まれました。

 

そんな支配や対立ありきの社会に、民衆の心の豊かさや幸せは見つかるのかと、常に疑問に思うところではあります。